自分が嫌いでなぜ悪い

27歳会社員 いまだに「意味」とか考えちゃう

あの日電車に飛びこんだのは私だったと思う(終)

 

会社へ戻る電車をホームで待つあいだ、

 

「次にホームに流れてくる電車に、飛び込んでしまおうか」

 

と思った。そうしたら会社に戻ってから上司につめられることもないし、この無味乾燥で何も感じられない日々から開放される。生と死はほんの紙一重だ。一歩足を踏み外せば、一瞬でこの世のものではなくなってしまうのだから。

 

「一歩踏み出せば楽になれる……」

 

そう思っていると、アナウンスが流れた。いよいよ電車がホームに滑りこんでくる。もうこれで、楽になれる。やっと楽になれる。

 

ーーでもそうはならなかった。私が飛びこもうと思って待っていたその電車が、一駅前で、人身事故で止まってしまったのだった。電光掲示板の表示が「人身事故・運転見合わせ」にすぐに切り替わった。私が飛びこむはずだった電車に、それよりも早く飛びこんだ誰かがいた。その人が助かったのか、死んでしまったのかはわからない。

 

ホームにぼーっと立ち尽くしながら、さっきまで頭をよぎっていたことを思い出し、我に返る。

 

誰かが、電車に飛びこんだ。きっと誰でもよかったのだろう、その日電車に飛びこむのは。私でもよかった。でも何かの導き合わせで、私ではなかった。大袈裟かもしれないけれど、生かされるってこういうことなのかもしれない。そのとき、もう「電車に飛びこむ」という考えは頭の中から消え去っていた。長いこと待って、ようやく運転再開した電車に乗って、会社に戻った。当時にしては珍しく、不思議と心は落ち着いていた。

 

この体験をしたことで、人身事故は起こるべくして起こるものではない、と思うようになった。人身事故では遺書はあまり見つからないと聞いたことがある。死ぬつもりで飛びこむのではなく、「現実から一瞬でも逃れられるなら」という思いで、衝動的に飛びこんでしまう、というのが実際のところじゃないだろうか。ふと頭をよぎって、すっとホームの外に足を踏み出してしまう。関係のない大勢の人に迷惑がかかるとか、ものすごい賠償金が遺族にいくとかそんなことを考えていたら、飛びこみ自殺なんて絶対にできない。ただ一時でも楽になりたいという思いだけなのだろう。そう思うと、たまに遭遇する人身事故に腹をたてることもなくなった。あの日死ななかった自分と、今日もどこかで死んでゆく人。その違いは何だったんだろうと、今でも思うことがある。

 

それから、私は会社を辞めることを決意し、上司に報告をするのだが、なぜか辞めるのではなく「異動」が決まって、ちがう職種に移った。「笑うようになったね」と言われるようになった。営業時代の私は、笑わないし、しゃべりもしなかった。本当に陰気くさい新人だった。

 

この話題を書きはじめたのは、異動して何年も経っているのにいまだに当時のことを思い出して悶々となることがあるからで、書き出すことで成仏できたらという思いからだ。だからもうこれで本当におしまいだし、これからどう生きるか、何をするかを考えるために時間を使っていきたい。